ただの私の脳内

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言語

宇多田ヒカルが最近こんなツイートをしていた。

 

 

「私が自分の日本語の歌詞を英訳していることは英語が話せるファンにとっては嬉しいことなのか、それとも自分で何とか理解しようと頑張ることの素晴らしさを奪っているのか、どうなんだろう」

 

語学に力を注ぐ人間にとっては面白い疑問だと思った。

 

私は言語が好きだ。親を疲弊させる勢いで絵本の読み聞かせをせがみ日本語を吸収した保育園時代も、百人一首を瞬く間に全て覚えてしまった小学校時代も、英語にのめり込んで朝から晩まで英語学習に捧げた中学高校時代も、スペイン語を専攻してラップに魅了された大学時代も、今も。

 

けどそれって何のため?

 

そう思う人がいるのは当然のこと。特に外国語に関しては技術も進歩して翻訳や通訳なんてものは機械に任せればよいと考えられるようになってきている。昨夏バリに旅行した際にインドネシア語の表示にスマートフォンをかざすと日本語に訳されて画面に出るアプリを利用しているカップルがいて、ついにここまできたかと思った。滅茶苦茶な翻訳を出してくることで有名だったGoogle先生だって随分と的確になった。

 

but

 

言語は「意味が理解できるかどうか」ではない。と私は考えている。

これはあくまでも個人的な見解であって「伝わりさえすればいい派」に反対するつもりは全くない。ただ、それ以上のものが言語には内包されるのだとそれだけは主張したい。

 

言語は文化だ。

 

その時代のその地域の言語をそのまま理解するというのは、その時代のその地域のその人の文化や思考を、在り方を、理解するということであり、そこに語学の醍醐味はある。

アメリカ留学から帰国して最初に戸惑ったのが「いらっしゃいませ」への回答である。アメリカではHiとか何とか言いながら店に入っていたが日本ではどうすればよいのだろう。「いらっしゃいませ」には何と答えればよいのだろう。というか、今までどうしてたっけ?

成田空港の寿司屋の入口で暫く固まったのちたどり着いた結論は、「特に何も言ってなかった」

日本の接客において行われるのはカジュアルで対等なコミュニケーションではない。サービスをする側が(時には一方的に)客をもてなすのが基本スタイルだ。客は一言も発することがないまま立ち去るなんてコンビニやスーパー程度ならよくある話。その文化が「いらっしゃいませ」の一言には詰まっている。

 

また、スペイン語にはsobremesaという単語がある。sobreは英語で言うとonとかそういう感じの「上」系の前置詞だ。mesaはテーブル。見えてきますね。テーブルクロスとかそういう感じっぽいね。うんうん。

 

ちゃうねん。

 

いや、そうなんだけど、そういう意味もあるのだけど、違う、最初にくる訳は、

 

「食後のひととき」(小学館西和中辞典)

 

ご飯とか食べたあとのもう何もないのにダラダラお喋りに興じるあの時間あるじゃないですか。あれをsobremesaって単語にしてしまうんですよ。スペイン語の世界だ。友人や家族との時間を、食事を、せかせかしないでゆったりと楽しむことを、大切にするスペインやラテンアメリカの文化だ。

(それはそうと私がよく使ってしまう「ちゃうねん、」にも関西の文化が色濃く出ているな)

 

少し方向性を変えて話すと、私は映画「ちはやふる」をオーストラリアでのワーホリの帰りの飛行機で初めて観たのだが、当然ながら英語字幕がついていた。百人一首に英語字幕がついていた。詳細は覚えていないがそこには百人一首の魅力などひとつもない。英訳することで意味を理解できる人の数は圧倒的に増える。それは間違いない。ただ、短歌ってそういうもの?意味が分かればいいの?五七五七七も掛詞もなければ、奥ゆかしさも美しさも存在しない。あるのは「意味」だけ。それなら短歌にする必要などない。ラップにも同じことが言えると思う(本当に早く短歌とラップの共通点についての研究したい)。

 

だから、私は自力で分かりたい。他者の訳から得られるものとは奥行きが違う。意訳とか誤訳とか特に字幕だと字数の関係で省略されるとか、そういうのもあるけどそれだけではない。それなら宇多田ヒカルのように本人が訳しているものならさほど問題はないはずである。依然として彼女が冒頭のような疑問を抱くのは言語そのものに個性と文化があり、ある言語で表現されたものを自力で理解することに確かな価値と魅力があるからだ。だからこそ私は訳すことの奥深い面白さも感じていて、だからこそ自分で理解することに等しい訳など不可能だと思っていて、だからこそ自分にできる最良の訳に興味があったりもしているわけだが、とにかくそれは非常に難しいのだ。

卒論だって、私は「カリフォルニアのメキシコ移民の若者のアイデンティティ形成にヒップホップが与える影響」について研究したのだが、最も力を注いだのは数々の英語ラップとスペイン語ラップに自分なりの日本語訳をつけることだった。ああ、懐かしい、大学の図書館でスペイン語スラングを調べまくった日々。未解決問題ありまくり。 

 


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言語への関心なしには語れない四半世紀を過ごしてきて確信しているのは、自分の言葉で話せる相手の数とか、自分の脳みそで咀嚼できる情報の量とか、そういうのって見える世界の広さに直結するんだということ。家も学校も地元も日本もクソ、親も同級生もクソ、自分もクソ、と思っていた中学時代に英語に出会って外の世界の存在をはっきり認識した。一人称の"I"を常に大文字にする英語という思考回路に私は救われた。今の場所や人や思考や文化が全てではないと私は語学を通して学び、またそれを日本を知るためにも生かすようになった。

トルコ人の親友とは英語で話すけれどいつかトルコ語で話してみたいので一先ず彼女のことはトルコ語を使ってkankaと呼んでいる。

英語やスペイン語のニュースを読むことで脳内世界地図の中心が日本にならないようにしている。

会社員になった今も日本語や英語やスペイン語や他の言語の新しい表現を知っては「ここに重きを置くからこの順番に単語を並べるんだな」などと考える。

最近すごく気になっているのは違う国で生まれ育った人と母国語同士で話せるのはどういう感覚なのか。日本人にはなかなか経験できないことだから誰か教えてほしいと思う。

 

そしてやっぱり、意味の理解に支障はないとしても、Google翻訳には血が通っていない。すぐに分かる。

 

何度も思う、なんで私は休日の午後の時間を仕事で使いもしないスペイン語の勉強に当ててんだ?と。それでも私が言語学習をやめることはないだろう。

 

Porque..

 

(Why?が¿Por qué? でBecauseがPorqueなのもすごくスペイン語っぽいよね。)