ただの私の脳内

音楽と映画と本と旅と語学

存在

 

わたしが急に消え去ったとして、気がつく人はどれくらい居るのだろう。

 

まず、会社の人たちはわたしが出勤してこないことに気づかないはずはない。その日と代わりが見つかるまでの数週間くらいは大変かもしれない。

友人はどうだろう。母とは連絡を取っていないから短くても半年は気づかない。父は生存確認のためにフェイスブックをたまには開くようにお願いしてきたくらい(ログイン履歴のようなものを確認している様子)だから数ヶ月もあれば気づくだろうか。

 

もし誰にも気づかれないとして(仕事をしてなければ有り得ない話ではなさそう)わたしは果たして確かに「存在した」と言えるのだろうか。わたしが存在することをわたしは知っているけどそのわたしごと消えてしまうとき誰にも存在したと認識されないわたしはもう存在したことにすらならないのではないだろうか。

 

【存在】

一、現実にそこにある(と感じられる)こと

二、ある働きを持つ(評価を伴う)人間

新明解国語辞典より)

 

そう、これ、一の()内の話がしたかった。自分がそこにあると誰にも感じられてないとき、自分は存在しているのか。

二はもっとこわい。人間の前に条件がついているなんて。存在として認められない人間がいるということか。ある働きとは。こわすぎるのでこっちについては考えないことにしておく。明日も仕事なので。

 

この一の定義の()内の主語は一体誰なのだろう。誰でもよいのだろうか。誰かが「存在した」というのが誰かによって認知されているということなのであれば「忘れないこと」はやさしさなのかもしれない。

 

でも、忘れないって、何を?

 

例えばそれが誰かの言葉であるとき「存在した」と認定されるのは発した人ではなくその言葉ではないのか。見た目や声や着ていた服や読んでいた本を覚えていてもそれはその人の全てではないのだからその人が存在したことを根本から証明するわけではないのではないか。何処かしらに名前が残っていたとしてもそれが効果を発揮するのは名前だけでなく他の何かをしっかり認識および記憶していてその表層化として名前が使われているからであってただ名前が記録されているだけではただの文字列だ。その人そのもの、なんてほんとうはどこにも残りようがないのかもしれない。

 

うん、やっぱり自分の存在を決定づけるのは自分だ。

 

いつ、どこに居ても、わたしはわたしが今ここに居ることを知っている。それを否定することは誰にもできない。誰にどう言われたって自分にとっては絶対真実。そういうものってそんなに多くない。

 


f:id:mirewords:20190706001921j:image

 

二について考えてみたら(考えるんかい)自分が誰かの何かに影響を及ぼしたとしたらその影響こそが存在の証明になるようにも思える。でもそんなこと早々ない。あるって信じたいけどおそらくわたしによってもたらされるような変化(あるいは不変)なんて遅かれ早かれ、それに影響を受けたものが消えてしまったらそのときは共に、でもそれがまた別のものに影響を、ああもうこの話やめよう。

 

デカルト、読んでみようかな。