ただの私の脳内

音楽と映画と本と旅と語学

Carpe Diem

 

このところ、テレビをとっくに捨てたわたしのところまで届くほど世間の動きが激しい。入ってくる情報およびそこから派生する思考を遮断する機能を搭載していない人間なので、色々と考え始めてしまう(ウイルスのせいにするな、いつものことだろ)

個人的に今アツいのが「みんな明日の存在を信じて生きているのか」というトピック。というのも、この自粛ムードにおいて「落ち着いたらまたできるから!」だとか「命が何より大切です!」といった趣旨の発言を見かけることが少なくないのだ。困惑した。

 

なんで明日も生きてる前提なの???

 

ウイルスによってのみ死がもたらされるというのであればまだ分かるが、え?わたしたち、死に向かって生きてるんでないの?死にたくないという感情を根拠に行動することに意味なんてあるの?ウイルスにさえかからなければ明日が来ることが約束されているの?

 

そんなわけない。死って、そんなに遠くない。

 

明日死ぬと思って今日を生きろ、なんてよく言われるがわたしの思考回路はその言葉が意図するほど綺麗なものでもないのだと思う。ただ、常に一秒後に死んでしまう可能性を能動的に認識している。死ではなくとも、今この瞬間に確かにここに在るもの全てがいつでも失われるものだと考えている。そして、わたしは警戒することで「その時」を必死こいて先延ばしするのではなく、今、愛したい。今したいことは、今する。

この強い諸行無常の感覚がどこから来ているのか、数年前のブログにも少しだけ書いた。理由なんていくらでもある。ハタチになるより先に四人の祖父母の死と向き合う必要があったこと。大好きだった父親がまだ小学生の自分を置いて出ていったこと。唯一の家族となった母親が事故で頭を打ったと連絡が入ったこと。保育園児のときから追いかけていたアイドルグループが何の前ぶれもなく解散してしまったこと。留学で出会った親友の暮らすトルコでテロが多発したこと。死のうとした経験があること。

 

好きなひと、好きなもの、簡単になくなってしまうのだと知っている。有事の際でなくとも、大多数の人が日常を送っているときも、毎日毎日毎日、誰かの何かが失われている。大切だとかそんなことは関係ない。当たり前なんてない。永遠なんてない。従って「いつか」も信じられるはずがない。

 

だからと言って自粛を否定したいだとかそういうわけでもないが、端から存在するかどうかも分からない明日を守るために間違いなく手にしている今日を使い果たしてしまうことにわたしは同意できない。あなたもわたしも簡単に死んでしまうということを前提に生きている人間からしたら、そこに数パーセントの確率が上乗せされるかどうかなんて正直どうでもよい。例えば手洗いうがいでその数パーセントを減らせるかもしれないならやるけど(やってるけど)そのために今この瞬間の自分にとって大切なものを削ろうとは思えない。また、他人を守るという視点から考えても(話がややこしくなるのでそもそもみんなそんなに他人のこと気にしながら暮らしてましたっけ?問題はスルーしておく)本当に人間を追いつめるのはウイルスではないと思っている。命があるという事実では人を守ることも救うこともできない。もちろんこれはただのわたしの価値観でしかないので肯定してもらう必要はない。ただし、否定される筋合いもない。

 

誰に教えてもらったのか知らないけど、ウイルスから人命を守ることを最優先にすべきというあなたの価値観にわたしが従う義理もない。

 

自分の価値観を、自分の正義を、自分の哲学を、それぞれが大切にしたらよい。それがマジョリティであろうがマイノリティであろうが、他人に肯定や同調を強いる権利も、その流れに上手く嵌まらない意見を排除する権利も、誰にもない。考える権利と、伝える権利だけがある。わたしはそう思う。

 

 


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というかもうウンザリなんだよ。不倫は重罪、ドラッグは愚鈍、この「非常時」にライブ開催なんて言語道断。うるせえよ。