ただの私の脳内

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美、自信、アイデンティティ

 

 

冨永愛さんの「美の法則」を読んだ。発売日を心待ちにしていたのだ。オタク的な感情とは違うのでツイッター等でも語ることは少ないが、愛さんはわたしの憧れの人。

 

わたしは、背が高い。愛さんほどではないが、間違いなく高い。それはあるとき急に始まった。どちらかと言うと小さかったはずが気づいたらみんな追い抜かしていた。そして、わたしは昔から健康診断の心電図で痩せ型に特有らしい症状(問題はないらしい)で引っかかるくらいには、痩せている。いや、痩せていた。今は筋肉をつけてコントロールしている。

背が高く曲線のない身体、ただ長いだけの手足、漆黒のストレートヘアと奥二重の目。どう扱えばよいのか分からなかった。平成生まれのわたしはSPEEDに憧れて育ったし、女の子が黒いパンツで「かっこいい」と言われることもできる時代ではあったんだと思う。それでもやはり「かわいい」は正義だった。小柄でやわらかい雰囲気の女の子に対して「守ってあげたい」という表現がよく使われていたし、女の子の色はピンクだったし、制服はスカートだった。貪欲で自立心が強い性格といわゆる「女の子らしさ」とは重ならない外見が相まって、わたしのアイデンティティは迷子だった。

男になりたいとは微塵も思っていなかった。そういう感情ではなかった。だから、ストリート系に逃げても満たされなかった。ストリートでは(少なくともアマチュアのダンスにおいては)かっこよく在ることだけが正解で服装や振る舞いにも女らしさは求められておらず、その事実は(男への同化をうながすような作用もあったとはいえ)わたしを息苦しさから解放してくれた。でも息苦しくないことは深呼吸ができることとは別だ。わたしはストリートというジャンルの特性に包まれて安心したいのではなく、だぼだぼのスウェットで全てを隠したいわけではなく、わたしとして、女として、自信を持ちたいのだ。

 

全てを日本社会のせいにして海外セレブを追いかけた時期もあったけど、わたしの顔は誰がどう見てもアジアンだし、グラマラスボディにもなれない。勝てない。悶々としていたときに出会ったのが、愛さんだった。高身長へのコンプレックスを糧にしてモデルの仕事と向き合い、アジアンのトップモデルとしての道を模索した愛さんにぶん殴られて、わたしのわたしによるわたしのための美の追求が始まった。

 

今、わたしは深呼吸ができている。少なくとも外見やファッションについてはブレない自信がある。それを支えている背が高く曲線のない身体、ただ長いだけの手足、漆黒のストレートヘアと奥二重の目に誇りを持っているし、どう扱えばよいのか知っている。逃げたくて仕方なかったあの「女の子らしさ」に溢れる乃木坂を好きになれたのも、自分がそこを目指す必要がないことを知っているからに他ならない。

 

何を見てどう感じるか、人との接し方や、仕事との向き合い方、どんな部屋で暮らし、どんな日常を送っているのか、自分を大切にしているのか……。

つまり、美しさの本質を追求していくと、

「今をどう生きているか」

という問いにたどり着く。

愛さんは「美の法則」の序盤でこう書いている。本当にそのとおりで、自分らしい美しさを整えられているとき、それは思考や価値観と直結している。ファッションやメイクも含めて表面的な誤魔化しではないのだと分かる。アイデンティティなのだ。

だからこそ「自分」を武器にして美を磨くことは、リスクを伴う。それが揺らいでしまうときに失うのは流行の追求や他人からの評価ではなく、自分の思考や価値観であり、自分の生き方であり、自分への信頼だ。

それでも、

ランウェイは一発勝負だから、自分に自信がないとか、「私なんて」などと言っている場合じゃないし、ここ一番の集中力が試される。

これはわたしだって同じなのだ。上を目指したいなら、自信が与えられるのを待っている暇はない。作るしかない。自分の持つ武器も扱えないのに闘いにいくことはできない。わたしは今も決して自己肯定感の高い人間ではないが、自分の何をどう磨いていくべきかを冷静に理解している。だからブレない。


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かっこよく在りたいね。