ただの私の脳内

音楽と映画と本と旅と語学

選択

今日は涼しかったからなかなか機会のない脚を出してマーチンを履くという服装ができた。休日だから軽めだけどツヤ感を大切にしたメイク。誰に会うわけでもない。紀の善で白玉あんみつを食べてギンレイホールで二本立ての映画を楽しむという私にとっては極スタンダードな休日。

 

私は自分なりのスタンダードを大切にする人種で、そういうふうに生きている人が好きだ。スタンダードを持つことは明確な意思に基づく選択ができるということを意味すると思うから。そう、選択。子どもの頃は人生における選択って進路とかそういう壮大なものだと思っていた。大人になって自由と窮屈の両方を強く感じるようになってから気づいたのは、あれも、これも、自分の選択だということ。

それは東京で暮らし始めたこととか、大学でスペイン語を専攻したこととか、アメリカに留学したこととか、オーストラリアでワーホリしたこととか、今の会社で働いてることとか、そういうのだけではなく。

例えば今日のリップひとつを取っても、手持ちのいくつかの中から迷い最終的にTHREEのVoice Ascendingを選んだ(余談だが私はコスメにつけられた名前は大切にする派である)。塗り方だって仕事のときはティッシュオフすることが多いけど今日は塗ったあとに自分の顔面を三秒ほど眺めてそのまま出かけることに決めた。そもそもこのリップが「手持ち」の仲間入りをするまでにも数多あるブランドやカラーの中から私はこれらを探し出して買ったのだ。

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映画だってどこの映画館でどの映画の何時の回をどのドリンクを持ってどの席で観るか、私が選んだ。あまりにもいつもどおりなのでそんな感じはしないが、確かに選んだ。

 

毎日毎日毎日、選んでいる。

自分なりの意思とこだわりで選んだものは揺るがない。

こうしてスタンダードができあがっていく。

 

このような日々の選択を適当にしてしまうことを私は好まない。私にとってそれは「自分がどう在りたいか」を怠惰ゆえに捨ててしまうことを意味する。メイクやファッションは分かりやすい例だと思うが、ペン一本、タオル一枚、それすらも自分でちゃんと選びたい。なぜそれが良いのか理由つきで選びたい。

ただこだわりが強すぎるだけじゃないか、ペンのインクは必ずブルーブラックだなんてそんなことで自分の在り様が決まるはずないじゃないか、そう思うこともないと言えばウソになる。けどやっぱり私はブルーブラックにこだわる自分で居たいのだと思う。黒と青の間に在るその色は子どもの頃から「文字を書くときはこれが普通だ」と刷り込まれてきた色とは確実に異なっているのに正式な書類にも認められる。型どおりにはなりたくないが常識の外で悪目立ちしたいわけでもない私の欲を満たしてくれる。世界に黒しか要らないくらいに何もかも黒を選ぶくせにここだけは黒は違うと言うその理由なんて別に誰も知る必要はないのだが、とにかく私はブルーブラックが良いのだ。おかげさまで会社ではブルーブラックで書かれていたら私だとすぐに気づいてもらえるようになった。もっとも、字も癖があるからブルーブラックのおかげとは限らないのだけども。

私はあまりにも何もかもにこだわるので「そこまでしなくても」と言われることが、まあ多い。だけど私の身につけるもの、好きなもの、付き合うひと、考えること、全てが私を構成している。世界には内面>外見と信じている人もいるようだが、私はそもそもそこは切り離せないものだと考えている。自らの「こう在りたい」を外見に押し出さないことはつまり他者に内面まで確認してから自分のことをジャッジしてほしいと要求しているか、そうでなければ他者に自分をどう捉えられようと無関心であるか、いずれかではないだろうか。

別に外見にこだわるというのは飾り立てることではない。私はネイルにもマツエクにも行ったことはない。ここ数年は黒髪だしコテを使うこともない。そういうのはどうだってよくて、もっとこう、頭のてっぺんからつま先までを貫く「テーマ性」というか。

 

そう、テーマ性。

 

ファッションも仕事も人間関係も趣味も勉学も恋も旅も、テーマ性。「自分がこう在りたいから」を軸に選択をするというのは、信念を持ちかっこよく生きるというのは、それを大切にすることなのだと思う。テーマの散らかったものはいつだって醜い。人生の大きな決断において「こいつ(あるいは自分)何がしたいんだ」と感じるのはよくある話だと思うが、私は選択の大小に関わらずその目線を持っていたい。人間だけでなくアートなどもそうだがテーマ性があれば必ずかっこよくなるわけではないかもしれない。だけどテーマ性のないものがかっこよくなることは絶対にないと私は断言したい。私は。

 

勿論、そう簡単にはいかない選択だって人生にはたくさんある。それはもうたくさんある。そんなことは分かっている。そのときに妥協やブレでなく擦り合わせていくことができるしなやかさを兼ね備えることはまだこれからのステップ。だからこそ、今の私はブルーブラックで文字を書ける喜びを噛みしめるのだ。

 

ん、なんか色々書いたけど結局かっこよくなりてえなあ、ってだけだったね。最後まで読んだのも読んだ人の選択だから謝ったりはしないけど。自分で選ぶというのは自分で責任を持つということでもあるのだ。大変だねえ。