ただの私の脳内

音楽と映画と本と旅と語学

現在地

何だか冴えない。何処かへ行ってしまいたい。何もしたくない。

息苦しい。生きづらい。行き詰まってる。

そういう波が定期的に来る。10代の頃はその度に落ちるところまで落ちていたので少なくとも数日間は学校にも行けなくなっていた。今はそんなわけにもいかないから波が来てしまったときもちゃんと仕事に向かい誰にもバレないうちに立て直す。

それを可能にしているのは、おそらく、自分の現在地を把握する意識を持つこと。慌ただしい日々を送っていると自然と意識は「どこに居るべきか」と「どこに行きたいか」に集中する。そろそろ結婚に相応しい年齢だとか二年目なんだからこれくらいの仕事はできて当たり前だとか大して残業してないのだから家事もこなせて然るべきだとか。二十代の間に昇格したいだとか親が元気なうちに関係を修復したいだとか映画好きを自称している以上は年に百本は観たいだとか。

勿論、こういった思考は必要なものだと思う。周りと足並みを揃えることや自分なりの目標を持って努力をすることを否定などできない。だけど「should」や「want to」の力は自分で思うより強い。知らぬ間に身動きが取れなくなってしまう。そんなときは他の何よりも「am」を思い出すことが自分を自由にしてくれる。

「should」や「want to」は今ここに在るものではない。今後の計画だか予定だか義務だか知らないが、今ここにはない。今ここに在るのは「am」だけだ。

今、何を考えている?今、何をしている?今、何が好き?今、どんな気持ち?それだけが確かなものであるはずなのに、毎日一緒だからそこに在ることすら忘れてしまう。

私が一人旅を愛する理由のひとつはここに在る。一人で旅をすると束の間は日常から離れられる。いつもと違う場所でいつもと違う相手といつもと違うことをする。そうすると毎日一緒だった自分とは少しだけ距離ができる。それによって近すぎて見えなかった「am」が急に輪郭を露わにする。

あ、そっか、今の自分ってこういう感じなんだ。

つまり「am」が見えるということは自分の現状を知ること、あるべき姿や目指したい先ではなく現在地を把握することなのである。そして、現在地が見えるとそれに伴い周辺図が見え始める。正面の「should」や「want to」に埋め尽くされた一本道しか見えていなかったのが、右側とか左斜め後ろとかに道が見え始める。周りと足並みを揃えることや自分なりの目標を持って努力をすること以外の選択肢がはっきりと視界に入るようになる。

では旅から帰ったら過ごし方が変わるのか、正面の一本道を進むことはやめてしまうのか、というとそういうわけでもない。必死に歩いてきた道から簡単に方向転換できるほど自由奔放には生きていない。例え過剰な「should」と「want to」により酸素が薄くなっていたとしたって自分が前だと信じて歩いてきた道なのだ。

ただ、右側や左斜め後ろに他の道が在ると知っていることはいつもと同じ道を歩く際にも大きな力となる。別に、この道だけが全てではない。別に、いつだって他に行ける。別に、ここで失敗したって良い。今歩いているこの道を自分で選んだだけなんだ。そう思えることで呼吸は随分と楽になる。

もしかしたら器用な人は前方の一本道を見つめたまま右側や左斜め後ろの道の存在を意識し続けることができるのかもしれないが、自分はそれができない。すぐに目の前の道しか見えなくなって自分で自分の逃げ場を奪ってしまう。やると決めたら最後まで徹底的にやる姿勢は悪くないけど、時々、とてつもなく苦しくなる。だから一人で旅に出る時間だけは定期的に持つようにしている。あ、そっか、別にこの道だけが全てじゃないんだ、他を選ぶのも自分次第なんだ、って思い出せるように。

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この写真はアメリカ留学終わりの鉄道一人旅で滞在したニューオリンズのバーボン通りで撮ったもの。ONE WAYの標識がONE DAYにされてしまっているのだけど、偶然出会ったこのいたずらを私は心の底から愛でている。思い描く「one day」に辿りつくためには、そこへ続く「way」をマクロに見ていくことも欠かせないのだろうけど、それより先にその道を構成する「day」をミクロに見ることも忘れないようにしたい。

…ってまた「want to」で締めくくろうとしているけれど、何でもないいたずらが心に響きすぎて玄関のドアにまで写真を貼っているという話でした。