ただの私の脳内

音楽と映画と本と旅と語学

映画館

おはようございます。

師走の土曜日の朝、いかがお過ごしでしょうか。私は映画「勝手にふるえてろ」の初日舞台挨拶チケット争奪戦に敗れたので持て余したチケットへの想いをぶつけるべく安室ちゃんのツアーのアルバム購入者先行に申し込んだところです。ちなみに既に三種類の先行販売に外れてます。世知辛い。

 

映画と言えば、私は映画そのものが好きであることに加えて映画館めぐりを愛して止まない。映画館めぐりが趣味だという旨の投稿が「勝手にふるえてろ」で映画初主演をつとめる松岡茉優のラジオで読まれ本人に大いに共感してもらったこともある。

映画館めぐりをするようになったのはいつからだろう。地元に居た頃はそもそも映画館の選択肢がなかった。基本的にはチャリ圏内のイオンシネマ。そこで上映されない作品は親に交通費をお願いして京都まで観に行ったけどそれでも選択肢は限られていた。

(ちなみに私の地元は京都府である。京都府では京都市外に住む人間は「碁盤の目の外は京都ちゃう」と言われると怒るくせして京都市内のことを「京都」と呼ぶ。その外は京都であって京都でないと本当は自覚していることの表れとしか思えない)

それが東京に来たら事情が違った。大学生になり行動範囲が広がったことも無関係ではないけれど、それにしたって映画館の選択肢が多い。出掛けるついでに目的地で観たり都内でも数館しか上映しない作品を観るために遠出したり。そんなことを繰り返すうちに映画館を選ぶところから映画鑑賞は始まっていると感じるようになっていた。

座席。スクリーン。音。

半券。

スタッフ。

客。

外に出た瞬間の視界。

近くのカフェ。

駅までの距離。

帰宅に使う路線。

何もかもが違うのだから、作品の感じ方だって同じであるはずがない。勿論、こんな私でも映画のために余暇の全てを捧げることはできないので利便性で選んでしまうことも多い。それでも「これは」と思う作品は「どこで観たいか」をしっかり考える。だって別れた恋人を思い出して心臓を抉られるような作品を観て暗闇の外に出た瞬間に商業主義の権化であるショッピングモールの明るさに包まれたら吐きそうだし。渋いジャズ映画はミニシアターの小さな部屋でお気に入りのカフェで入手したカプチーノを片手に観たいし。注目のミュージカルはシネコンの大画面でキャラメルポップコーンを摘まみながら観たいし。

そんなわけで残り2週間ほどとなった今年も訪れた映画館の数は現時点で21館。映画館めぐりに情熱を注いでいる方々からしたらハァ?って感じの数なのだろうけど自分的にはこんなもん。ただ、シネコンが10館とミニシアターが11館で、回数で考えても今年はシネコンが多めで、それは少し後悔している。

ずっとずっとそこに在ってほしいと思う小さなカフェや映画館は人任せにしてはいけない。つぶれてから嘆いたって遅い。ちゃんと足を運んでお金を落としたい。独身会社員は他の誰よりもそれを容易にできるはず。利便性だけを理由にシネコンで映画を観てカフェチェーンで休憩していると時々とてつもなく悪いことをしている気分になる。別に便利なのが悪いことではないなんて頭では分かっているけど割り切れない。

なんて、京都の歴史ある映画館、みなみ会館が老朽化を理由に閉館するという知らせを聞いて改めて。修繕するお金ないんだって。映画が終わって外に出てわき目も振らずに駅に向かうと視界に入らないけど少し目線を開放すると確認できる位置に東寺があるのが好きだった。だけど東京に住む私はみなみ会館の売り上げに貢献などしていないという事実。

それぞれの物語を持つミニシアターが各地にあって今も客が入っている。それは物凄く尊いことだと思う。守りたい文化だなって思う。自分がババアになった頃にシネコンしかなかったら嫌だなって思う。だったら。

 

とか何とか真面目ぶって語ってみるけど、映画館めぐりは単純に自分が東京に居る理由の再確認だったりもする。東京には選択肢と多様性がある。それは中高時代の私が喉から手が出るほど欲していたもの。片田舎では手に入れられなかったもの。映画一本を観るだけでも東京にはあらゆる選択肢がある。自分で選べる。それが好きでここに来たんだった、って感じられる瞬間。

 

同世代の大多数がシネコンにしか行ったことのないという現実が仕方ないことは分かっているし何も言うつもりないし自分が時代遅れなだけである可能性の方が高いことも十分に理解している。けど、けど、座席自由とか、飲食持ち込み可とか、席が座椅子とか、二本立てとか、場内アナウンスが口頭(しかもマイクなし)とか、知ってる?

 

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