ただの私の脳内

音楽と映画と本と旅と語学

自分ルール

夕刻に仕事を終えたある日のこと。上司に「今日は帰ったら何するの?映画?」と訊かれたので「映画は休日かその前夜にしか観ないと決めていて仕事の日は23時までに帰れたらジムに行くことにしているので今日はジムです」と答えたら「本当に色んなことが決まってるんだね」と優しい微笑みと共に返ってきた。

そう、私の脳内には本当に沢山の決まりごとが詰まっている。その大半は「なんでそんなことにこだわるの?」と言われるような些細なことである。

消耗品なども含めて基本的に色は黒を選ぶ。部屋ではフードをかぶる。図書館ではフィクションとノンフィクションを少なくとも一冊ずつは借りる。そして毎晩ベッドで読む小説(日本語)と仕事の日に外で読むビジネス寄りのノンフィクション(日本語)と休日に外で読むノンフィクション(英語)を同時に読み進める。テレビの音量は13か17に設定する。鞄はいつでもどこでも地べたに置く。ペンはSARASAのブルーブラックかじいちゃんの万年筆を使う。コーヒーは毎日必ず飲むが複数回は飲まない。三千円までの買い物はパスモで払ってそれ以上はクレジットカードで払う。下りはエレベーターには乗らない(エスカレーターは可)。映画館に行くときは観る作品に洋服を合わせる。

これらは全てただの癖や習慣ではない。そうでないと嫌なので意図的にそうしている。自分の中のバランスを保つためにしていることであり、可能な限りは絶対に変えたくない。

だからそれは小さな行動だけでなく例えば休みの過ごし方にも表れる。月に8日休みがあるとしたら4日は友人との予定を入れる。残り4日は一人で図書館や岩盤浴や部屋に居る。映画館は時を選ばず入り込んでくる。数ヶ月に一度は舞台やライブを観に行って春と秋は国内旅行、夏と冬は海外旅行をする。クラブなどで羽目を外すのは休日でなくその前夜。これが私のバランスなので友人との予定が休みの半分を超えないための調整は必須である。広く浅い付き合いをしない私のことを連れ出してくれる友人の誘いは基本的に断りたくないが何とか自分だけの4日は死守しないといけないのでそこは候補日には入ってこないため仕事終わりにぶち込んだり色々と工夫している。

 

そんなに小さいことにこだわって生きづらくないのかって?

いや、めっちゃ生きづらいっすよ。

 

けど大人になるにつれ少しずつ妥協を覚えて社会との折り合いをつけられるようにはなってきた。大げさだと思われるかもしれないけれど自分ルールを数多く抱えているとそれが世間と噛み合わないときには相当なストレスを感じてしまう。幼少期から思春期にかけては自分の脳みその仕組みを理解できていなかったので半ばパニックに陥ることも少なくなかった。例えば保育所の下駄箱。誰がどこに靴を入れるかは決まっていなかったが私にはお気に入りの場所があったのでいつもそこを使っていた。だが。当然の如く。誰か使ってんねんけど!!!ということがありまして。立ち尽くした。念のために言っておくと誰がどこを使っても良いというシステムについては理解していた。上の左から二番目を自分の場所だと思っているのは自分だけだということも分かっていた。それでも嫌で嫌で嫌で、靴をどうしたかは記憶にないがその日ずーっと落ち込んでいたのは覚えている。

そういうエピソードがそれはもう山のようにあるわけで。年を重ねるにつれそんなことにこだわって勝手にストレスを感じる自分に嫌気がさして何もこだわってないふりをしたりもした。他人から見たらワガママでしかないなと思った。何より臨機応変な動きが全くできずあらゆる場面で固まっていたのでこのままでは生きていけないと焦っていた。ハタチを超えたくらいからかな、別に自分ルールがあったっていいじゃないかと冷静に考えられるようになったのは。それがあるからこそ私は私なわけで全てを捨ててしまう必要などない。そもそも根本的にはきっと捨てることなどできやしない。

そこから自分ルールとの上手な付き合い方を真剣に探すようになったわけだが、その中心となったのが旅だった。少しだけ「いつもどおり」を手放して周りに合わせてみること。ただこだわりを捨てるのではなく今ある環境の中で自分にとってしっくりくる方法を探すこと。他のメリットのために何かを我慢してみること。諸々を冷静に考えてみてそれでも守りたいものならばいつだってどこだって堂々とこだわること。どうしたって完全に「いつもどおり」にはできない旅の中でなら妥協の方法を探しやすかった。一度できたことは帰ってからも「あのときはこう考えて折り合いがついたな」と思い出せるし応用も利かせられる。海外には堂々と自分ルールで生きてる人が普通に居るのでそっちの方向でも助けられた。

ここ五年くらいをそんな感じで過ごして、今は自分ルールのせいで困惑することは殆どなくなった。経験も積んでいるからどんな自分ルールがあってどんなときにそれが乱されてどんな感情に繋がるのかも大体は把握している。昔は自分ルールなんて概念も持っていなかったから「どうしてもこうでないと嫌」以外には説明することもできず自分が一番困っていたけれど、今は完全に自分のコントロール下にある。冒頭の上司とのエピソードだって心を許しているからありのままを伝えただけで別に何も考えてませんという風に装うこともできる(と思ってるけどできてるのかな)。勿論、疲れてるときに自分ルールの外に出ないといけないことが重なりに重なるとウワアアアってなるけど、靴箱を取られた(ように感じた)あの日のように立ち尽くすことはない。お気に入りの靴箱を見つけた時点で「この靴箱はいつか誰かに使われる可能性が大いにある」とよく言い聞かせておく。悲しいけど…

ちょうどハタチ頃から自分を理解した上でありのままが好きだと言ってくれる人が増えたのは結局この何とか折り合いをつけようという試みが始まったからだと思う。突き通すわけでも押し殺すわけでもなく。他人と繋がりたければまずは自分と向き合うことだと実感する。映画「勝手にふるえてろ」のラストシーンではないが、人間関係を築きたければ先ずはクソめんどくせえ自分を自分で叱って褒めて躾けて甘やかして変えなければいけない。こんな厄介な人間をヨロシクでーすって他人に預けることなどあってはならない。

ちなみに、妥協の練習をかなりしたおかげで今の私は自分ルール云々に関わらず「怒る」ことが殆どない。思い通りにいかないことが多すぎて思い通りにいかないことに慣れたようである。今、私、無敵!(盛ったけど台詞だから仕方ない)

 

そんな今の自分は悪くないなって。

 

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このブログはいつの間にか月に一度の更新が自分ルールになってたって、知ってた?