ただの私の脳内

音楽と映画と本と旅と語学

国境線なんか俺が消してやるよ

 

韓国映画「パラサイト」がアカデミー賞で作品賞、監督賞、脚本賞、国際長編映画賞(外国語映画賞の名称を今回から変えたそう)の四冠。

 

正直、ふるえた。

 

パラサイトという作品を好きかどうかなんてこの際どうでもよい。歴史が変わった。

 

前にも書いたことがあるがわたしは韓国語の名前をつけられ近所の在日コリアン集落に暮らす人たちに面倒を見てもらって育った。母の働く車工場には南米出身者が多く生まれて初めて招待された結婚式はブラジル出身のお姉さんの結婚式だった。保育園も近くの団地の影響があって中国や韓国、スリランカなどの血を持つ子たちがたくさんいた。グローバルなんていうかっこつけたテーマとは無縁などこまでもローカルな多文化社会で暮らしていた。

 

そういう環境で育ったにも関わらず中高時代は白人黒人崇拝に陥っていた。親にジャズやブルースを聴かされていて自分自身もヒップホップが好きだったから白人至上主義にならなかったことは幸いだが、間違いなく欧米の文化にどうしようもなく憧れていた。それも白と黒で構成される英語文化圏としての欧米を見ていた。

 

だけどそれ以外の世界があることは分かっていた。それを見失っていくことが怖かった。どうしてアジアに生まれたのかと悲しくなる自分が悲しかった。重要なのはどんな血を持ちどこに産み落とされたか、ではないということにもっと確信を持ちたかった。

 

だからスペイン語を学ぶことにした。大学で英語ではない何かしらの言語とそれが話される地域について文化について学ぶことは決めていた。そうしないと「英語」に呑まれると思った。色々と調べた結果、ヨーロッパの中でも英語を話せる人の少ない国とそれから中南米各国で話されている言語を選んだ。視野を、情報の幅を、広げたかった(あと単純に発音が超好き)

 

大学では言語そっちのけでカルチュラルスタディースにハマって、特に移民がどう受容されていき文化が交じり合うのかというその一点をどうしても知りたかった。スペイン語との相性もよいテーマだった。留学前に卒論テーマを決めたとき移民の教育についてにしようかと思っていると伝えたら「そんな論文みんな書いてるからみれさんヒップホップで書いてよ、ダンスばっかしてるだろ?」と教授に言われて、わたしの卒論テーマは「カリフォルニアに暮らすメキシコ移民の若者のアイデンティティ形成にラップが与える影響」に決定した。

 

留学先はアメリカの一択だった。メキシコとの国境沿い、ラティーノとアジアンが人口の四割を占めるサンディエゴで一年かけて見たこと。感じたこと。考えたこと。

 

 

 

もう、国境とか、よくない?

 

 

 

わたしは線を引くなら自分と他人の間に引きたい。国境に合わせる必要なんてない。他人は全員異文化。これが留学を経てのわたしの結論だった。

自分の軸を持たないとき、視野は経済的・政治的に力を持つ方へ、マジョリティの方へと導かれていく。自分で選んだつもりでも最初から選択肢を削られている。

 

わたしは、自分で見たい。

 

国境線だけではない。何もかも、異なるのも分からないのもどっかの誰かが勝手に引いた線のせいではない。あなたがあなたで、わたしがわたしだから、難しいだけ。少なくとも自分の脳内ではあらゆる境界線を消して、みんな違うというただそれだけのことをそのまま受け入れてしまいたい。惑わされて騙されて「違う」の解釈を間違えればその奥の「同じ」も見えてこなくなる。ラブ&ピース過激派みたいな発言をしようとは思わないけど、映画は、音楽は、文化は、その手助けをしてくれると思っている。パラサイトの作品賞受賞によってそのことを正式に認められたように感じる。

 



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いつだって今日が「未来」のはじまり。





そっか、

わたし、


コーヒー、買っちゃってるよ、



年末年始の八連休(あみだくじで勝って一日追加させてもらった)を利用して初めて訪れたロンドンでふと気づいた。



ヨーロッパに来るのは二回目。ハタチ、初めての一人旅。スペインから入ってフランスとスイスを通ってイタリアから出る二週間の鉄道旅。いつのまにか、七年。

あのときのわたしは全てから逃げるようにヨーロッパに来ることを決めてどこかで見たような典型的な「バックパッカー」になるべく宿の予約もせずに飛び出した。今思うと慎重で臆病なわたしがそうなるくらい完全に行き詰まっていた。

バカな旅だった。お金をケチるくせに変なところで使ってしまうし、レストランに入るのが怖くて一日中ぐるぐるして餓死しそうになるし、危ない道も危ない人もすぐには分からなくてハッとすることも度々あった。雨に濡れて心が折れて休憩したいけど安いお店を上手に探せなくて片時も落ち着かなかった。貴重な時間となけなしのお金を使ってこの様かと泣きたくなった。何やってんだよおおおって振り返る度に笑ってしまうくらいかけがえのない人生で一度きりの「初」だった。今だから言えるほんとうの話。



それから少しずつ色んな国を訪れて少しずつ旅の仕方を覚えた。留学やワーホリで海外で暮らしたことも大きかったけど今もこうして年に数回は日本を出るようにしていて、いつのまにかコーヒーを簡単に買えるようになっていた。



それは、知らないお店に入ってカウンターで無愛想な(あるいはやたらスモールトークをしようとする)店員と話すことに何の躊躇いもなくなったということで、白人に囲まれても妙な緊張をしなくなったということで、昔は読み書き専門だった英語を「話せる」ようになったということで、


お金があるということで、


そのことになんかものすごく感動した。学生時代は食費一日千円くらいを目安に旅していたから数百円のコーヒーを買ってしまうというのは一大事だった。お店に入って値段を訊いて「無理でした、グッバイ」をする勇気も少なくとも留学前はなかった。そんなことを思い出して何の計算もせずに寒かったらコーヒー買って、疲れたらコーヒー買って、コーヒー飲みたかったらコーヒー買ってる自分のことをすごいと思った。大人になったなと思った。



年月は、経験は、人をどこまで変えるのだろう。違う自分になんてなれない。始めからやり直すこともできない。



わたしは、わたし。誰も知らない誰も見てない場所に来たってわたしはわたしを知っている。年を重ねたって肩書きがついたって旅の途中では関係ない。ただのわたし。いつものわたし。

仕事とか生活とか、色々と変わったように見えても知らない場所ではそんなのどうでもよくて定められたルーティンから外れる限られた時間の中で自分という人間がむしろ浮き彫りになる。何を見る?何を撮る?何を選ぶ?



映画

グラフィティ

ミュージカル

現代アート

コーヒー



何も変わってない。でも、お金を使える。それは間違いなく変わった。会社員になってから物価の高い先進国を旅することがなかったからお金を使いたいものにお金を使えることがどれだけの力を持つのか余計に感じた。お金があるかどうかは本質ではないけど自分の思うように過ごすため、本質を実現するため、少なくとも今この世界では必要だとわたしは思う。それを七年かけて手に入れてきた自分のことを、スーツ着て、ヒール履いて、ビール飲んで、タバコ吸って、リーダーとして働いて、必死にやってきたことを肯定された気がした。



変わったこと、変わっていないこと。嬉しいこと、楽しいこと。悲しいこと、寂しいこと。得意なこと、苦手なこと。できるようになったこと、できないままのこと。



好きで好きでどうしようもなく心を惹かれるもの、全人類がその価値を訴えているとしても全く興味を持てないもの。



変わっていくもの、変わらないもの。



地続きの毎日。




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さて、働くか。ロンドンからは以上です。

資本主義的、愛し方

 

人は何のために働くのか。

 

余計なことを考えて過ぎてしまう癖のあるわたしでなくても誰もが一度は考えたことがあるであろう問い。仕事に追われる毎日の中で度々この問いが自己主張を始める。二年目のとき会社の研修で訊かれた際には真剣に答えようとすると思考の渦から出てこられなくなるので「美味しいビールのため」と答えた。ウソではない。ちなみに上司に報告された。褒められた。

地位とか名誉とか生き甲斐とかその辺は今回は置いておくとして、資本主義社会における労働の主目的は金銭を得ることだ。それは生活のためであり、老後のためであり、日々に色(カラフルとは限らない)をつけるためである。最後のひとつがいわゆるプラスアルファの部分で、わたしはそれを文化と呼ぶ。

 

わたしの人生の大半は貧乏とまでは言わずとも決して金銭的余裕のある暮らしではなかったので、限られたお金で何とかすること、限られたお金を使いたい先を厳選すること、これに関してはまあまあ鍛えられてきたと思う。明日の食事に困るほどの生活にはならなかったから言えることではあるが、金銭的余裕のなさが「自分で考えて選ぶ力」につながった。

 

例えばわたしは小学生のときからダンスを習っていて月謝に5千円くらい必要だった。月初に母親に「ください」と言うのは苦しかったけどそれでもダンスをしたかった。その代わりと言うわけではないが塾や予備校、それから英会話スクールは行きたかったけど行かなかった。受験は団体戦などと宣う風潮もある中でまあしんどいことではあったが(勉強を頑張ることが一般的な高校ではなかったので)一人で粛々と勉強した高校三年間は財産だと思っているし第一志望の大学にも受かった。ちなみにダンスも地元を出るその日まで休まず行った。

また、留学の最後にアメリカを一周して帰ってきたのだがこのときもう貯金は殆ど底をついていた。留学のために月30万円になるくらいバイトしていたのに、儚い、儚すぎる。どうしても諦めたくなかったのは音楽。そのために捨てたのは時間と食事。ホテル代を抑えるために中心地から離れた安いドミトリーに泊まってさらに地下鉄料金すら惜しいので歩く歩く歩く。食事はスーパーで買う食パンとピーナッツバターが基本。そこまでして観るミュージカルやライブは絶対に適当に選んで簡単に払ってしまうより最高だった。あとたまに食べる温かいご飯もちょっと泣けるほど美味しかった。

他にもそんなことはたくさんあって、それこそ観る映画も参加する飲み会も出演するステージも何もかも選ばないといけなかった。諦めたことも泣いたこともいーっぱいあるけど経済的にしんどかったから得られた感情や思考もたくさんあったと思う。生まれついたときからお金持ちの人たちが知らないこと、知ってると思う。

 

では。

なぜこうして「お金がないということ」をそれなりに前向きに捉えられる今、わたしは仕事を頑張って誰よりも早く昇進および昇給することにこだわっているのか。

 

過去のトラウマから将来に向けた野望までここに一晩で書き切ることは不可能なほど色々な要因があるのだけど、その一つが冒頭に書いた「文化」をただ享受するだけでなく維持していきたいと考えていること。

そう明確に思うようになったのにもまた色々な要因があるわけだが、

 

  • 老舗の小さなクラブでバイトしたこと
  • 父親が夢だったジャズダイニングを開いたこと
  • 大好きな熊本での地震のとき地域に根づいた店ほど影響があったこと
  • 好きな映画館に初めてクラウドファンディングしたこと
  • 営業の仕事を始めて一つの売上の重みを体感したこと

 

これらがものすごく大きかった。余程の欲がなければ今の収入でも愛する文化を享受することはできる。十分に楽しませてもらっている。少しくらい高くついても食パン&ピーナッツバターで食いつなぐ必要はない。

 

けどそれってその愛する文化がそこに在る前提で考えているということに気づいたときに受けとる側としてだけでなく守る側としての消費者になりたいと強く思った。

壊れたトイレの補修費用のための自作募金箱を置くクラブ。食材が余ってしまうので安くするから来てほしいとフェイスブックに投稿するジャズダイニング。大型ショッピングモールが営業再開する一方で全く目処が立たない古いラーメン屋さん。創意工夫をもって上映を続けてもシネコンに淘汰されるミニシアター。

簡単になくなってしまうと思った。安定した収入を得ていて子どものいない今の自分は「なくさないこと」を他人任せにはできないと思った。誰かが必死に守ってくれている前提で好きな作品だけを観に行くのではなく映画館の最たる収入であるドリンクやフードを購入すること。トイレ募金に千円札を入れられること。それをあらゆる場所で日常的に実施していくためには全然お金が足りない。

 

もちろん社会には大きな謎の力が働いているのでこちらがどう動いたところで消えるものは消える。だけどわたしは好きだ好きだと言うばかりでそこに費やす金銭は最小限に抑えていたくせに後から嘆くような大人にはならない。失ってから考え始めても遅すぎる。だって、誰がどうやって維持してくれると思ってたの?自分は守るために何をしたの?好きと言葉にするだけで何かが起きるわけなくない?資本主義って知ってる?

 



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ブロードウェイにはラッシュチケットというものがある。朝早く、劇場がオープンする前から並べば枚数限定で一列目端もしくは最後列の見切れ席を格安で購入できる。何枚が用意されているのか手に入れられるのか、保証はない。観光する時間を削って、並ぶ。暑くても寒くても、外で並ぶ。

それでも、並び続けるだけで通常は100ドル前後のチケットを35ドルで手に入れられることが食パン&ピーナッツバターの留学生にとってどれほど有り難いことか。学生や地域の住民への割引とも違う。並ぶこと以外は何の条件もなく観たい人に届けるために設けられているシステム。わたしが『シカゴ』のセクシーお姉さんの太ももを30cmの距離で(以下略)

五年前にラッシュチケットの恩恵を大いに受けたわたしの密かな(と言っても今ここに書いてしまったが)夢は、再びニューヨークを訪れて定価でミュージカルを観ること。

 

ついでにスタバ(アメリカではとても安い)ではなく美味しいサードウェーブのコーヒーもたくさん飲みたいな。

続く

続く人間関係と続かない人間関係の違いって何なんだろう。最近よく考えること。

 

東京に来てから八年半が経ち、それはもうたくさんの人に出会った。サークル、大学、バイト先のバー、バイト先のクラブ、バイト先のあんみつ屋さん、バイト先の事務所、単発のバイトたち、就活、ヨガ、留学、ワーホリ、旅行、よく行くお店、結婚式などのイベントで居合わせた人、友達の友達、オタク、会社、などなど。推定人数を出したかったけど、無理。

 

でもその中で定期的に会う関係が続いている人は、ほんのわずか。サークルなんて500人くらいと関わったはずだけど今も会うのはせいぜい数人。

ただ通り過ぎていく人間関係も必要なもので、同じコミュニティに属しているときは仲良かったのになあというのはよくある話だし、最初から合わなかったのだとしてもわたしの人生の一部であることに変わりはない。わたしは記憶力が異様に良いので関わった以上は忘れることはない。

だけどやっぱり「続く人間関係」というやつが、愛しくて堪らない。何も分からない誰も知らないまま東京に来て8年半、いつのまにか手にしていた優しい重み。

 

今日はそのひとつである元バイト先のバーの皆様と会った。2011年から2013年までを共に過ごしてそのあとそれぞれの道を歩き始めたけれど、年に数回は(たまに当時の常連さんたちも交えて)一緒に飲んでいる。

このバーはわたしの初バイトだった。経済力のある家庭で育ったわけではないので自分でも意外だが、高校時代はバイトをしていなかった。父の「好きにしたらええけどガキの小遣い程度のバイト代を稼ぐより勉強して国立でも行った方が賢いと思うけどな」に完全に同意した形である。

 

どうしてあのバーで雇っていただけたのか、さっぱり分からない。フリーターで毎日お店で働いているお兄さんお姉さんたちに囲まれて未成年の学生で「いらっしゃいませ」も言えないレジも打てないウイスキーもカクテルも知らない他人と話すのも得意でない、あげくシフトにもそこまで入れない。それなのに後になって聞いたところによるとわたしは即採用だったらしい。謎すぎる。ちなみにわたしがバーで働きたいと思ったのは自分が不特定多数の一人としてでなく自分として認識される場所に居たかったこと、バイトを辞めても役立つ知識(この場合はお酒)を得たかったこと、急いでいる人を相手にする接客だけは自分には難しいと考えていたこと(おそらくわたしには主に会話において独特のテンポ感というのがあって強制的に相手に合わせることが当時は今より厳しかった)などが理由だった。

ただ、他の皆様と共通しているところがひとつだけあった。地方から東京に出てきて初めて働く場所がここで「拾ってもらった」という感覚があったこと。バイトって学生が多いイメージだけどここで出会ったのはメイクとか建築とか俳優とかそれぞれの景色を見ようと東京に来た人たちだった。賄い制度はなかったけどみんなお金のない一人暮らしだったから小銭を出し合ってパスタとか買ってきて店の余り物と混ぜて食べてた。このへんが今も関係が続いている最大の理由なのかもしれない。そういやクラブもあんみつ屋さんも学生バイトって全然いなかったけど偶然なのだろうか。

 

当時の18才のわたしは、手の届かないはずだった大学に入って、憧れだった東京に来て、過ぎていく日々をなんとか自分のものにしようと必死だった。ダサかった。前列で踊りたくてサークルの練習も詰め込んでいたし、ダンスとバイトに明け暮れるには留年のリスクの高すぎる大学だったし、慣れない標準語を聞きながら乗るバイト帰りの終電は他人との距離が近すぎた。ていうか勉強もちゃんとしたいし。ていうか留学もしたいし。ていうか東京の人たち歩くん速すぎやし。ていうか、ていうか、ていうか。

 

そんな余裕のない毎日の中で、コミュニケーション能力の高くないわたしが接客を上手くこなせるはずがなかった。ほんとうに迷惑をかけてばかりだったけど「色んなこと頑張ってすごいね」と言ってくれてダンスも観に来てくれて、可愛がってもらった。このお店で「働くこと」を覚えて大人にしてもらった。お客様との会話を楽しみながらオリジナルカクテルに自分で値段をつけて出すようになった。辞める直前はお店の人不足と自分の留学資金不足が合致して、昼の事務バイトが終わってから毎日バーに向かう期間もあった。他に英語を話せるスタッフがいなかったから英語メニューを作成して去った。そこに行きつくまで見捨てずに働かせてくれた。

 

初めての一人旅でヨーロッパに行ったときに心配したお兄さんが明治神宮で買ってきてくれた旅行安全の御守りは今も必ず旅に連れていく。

初めてのデパコスはお姉さんがくれたリップグロスで就活のときはいつも塗っていた。

初めてのボトルワインは店長がハタチの誕生日にくれたスペインのスパークリングでコルクは今も大切に保管している。

初めて使った高級ボールペンは常連さんからいただいたものだけどスーツのポケットにいつも挿している。

 

あったかい。ダメダメだったわたしにも居場所をくれて、今も時間を共有してくれて、人数が多くても自然に会話に入れて、身に余る贅沢。

最近は会社でリーダーを任されていて、新人ちゃんたちに囲まれて育成育成育成の日々。やっぱり今もわたしは器用ではないからため息をつきたくなるときもある。でも、自分がしてもらったことを忘れたみたいな振る舞いだけはしたくないと思う。

 

続く人間関係を大切にしたい。会えば、当時を、初心を、自分という人間を、思い出せる存在。そんな簡単に手に入るものではない。そして手に入れるということは等しく「失う可能性」を持つことでもある。こわい。けど、失うことをこわいと思えるものがあることが嬉しい。だから、その関係が今ここにあるという事実を慈しんで、その関係を作ってきた過去の自分のことも認めて、過ごしていきたい。そう思えるような素敵な人たちに自分が与えられるものを見つけることは難しくてgive and takeは成立しないことの方が多いから、せめてtakeしたものを抱きしめて離さないようにしたい。

 

二十代も後半になると結婚出産とか、転職とか、海外赴任とか、実家に戻るとか、変化も多いので惰性では関係が続かなくなる。削ぎ落とされていって残るものが、その重みが、わたしが東京に来た意味。

 


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お兄さんにあの旅行安全の御守りを今も旅行のときは必ず持って行ってるから失くしたりしたらショックだなあ、と言ったら、そしたらまた買ってくるよ、と返ってきた。二両編成の世田谷線で泣きそうになってしまった。そう、東京にも短い電車、あるんだよ。

図書館

 

それ、小学生の夏休みじゃん(笑)

 

いつだったか同期に休みの予定を訊かれて図書館に行くかなと答えるとこの反応。そういうものなんだろうか。

 

今日も図書館。それから映画「ニューヨーク公共図書館」を観に行った。図書館デイならばとメルボルンの州立図書館のショップで購入したトートバッグをぶら下げて行った。

映画は三時間半のドキュメンタリー。図書館の存在意義や運営の話だけではなく学問の価値から人種や貧困の問題まで生き生きとした議論が続きものすごい情報量だった。アメリカ留学中に授業が詰まっていて大変だった木曜日を終えたあとみたいな脳みそになっていて圧倒されつつも考えたいこと知りたいことがまだまだあるから覚醒している感じ。

 

Library is not a storage of books. Library is about people.

 

とても印象的だった台詞。わたしは、自分は図書館のおかげで何とかまともに育ったと思っている。今でこそ収入があるので映画館を始め「どこかに行きたい」とか「何かしたい」ときの選択肢は色々ある。

だけど小学生のときのわたしは「行き場がない子ども」の典型例だった。親は共働きで帰ってきてもいつ怒鳴り合いが始まるか分からない、一人っ子、学校になじめない、外での遊び方が分からない。そして親に金銭が必要なお願いをすることも許されていないと思っていた。集団行動&雑音&ドッジボールというトリプルパンチを食らわせてくる学童は地獄でしかなかったので懇願して辞めさせてもらった。ダンスを始めるまでは習い事もしておらずとにかく一人で過ごす時間が多かった。

 

で、小学生が何をするか。テレビはうるさいので得意ではなかった。絵は描けない。文字は、好きだった。そして、賢くなりたかった。

 

図書館しかなかった。

 

無料だった。親も友達も必要なかった。話したくないことを話さなくてよかった。雑音もなかった。文字があった。

ものすごい勢いで読んでいたように思う。何を求めていたのか分からないけれどそれしかすることがなかった。貸出カウンターでピッてしてもらうとき自分と外の世界がつながる感じがした。棚に並んだ一冊と目が合う瞬間は本がわたしを探してくれた気がした。この感覚は今も大切にしているのだけど商業主義的な意図をもって配置された書店では味わうことができない(書店は書店で好きだけど)

 

本が好き。文字が好き。でもそれとは別のところで図書館が好き。家より学校より図書館に居るときが安心できたあのころとはもう違うけど今でも定期的に訪れて雑誌を数冊ほど読んでから本を借りて帰る。引っ越しも大きな図書館の近所というのが決め手のひとつだった。留学のときは大学の図書館に住んでるのかと思うくらい滞在していた(部屋が見つからなくてホームレス寸前だったときは本当に図書館に泊まろうとして当時の彼氏に止められた)し、ワーホリのときは部屋を探すより先に図書館を利用したくて泊まっていたホステルの住所で登録した。旅先でも図書館には行くのでもちろんニューヨーク公共図書館も行った。というか極寒かつ貧乏旅行だったので何度も何度も暖を取らせていただきましたその節はお世話になりました。

 

この映画を観て改めて認識したのは図書館も誰かによってどうにかこうにか保たれているのだということ。生活の中に当たり前に存在していすぎてあまり意識したことがなかったかもしれない。好きな珈琲屋さんや映画館はなくならないようにお金を落とそうとよく考えているけれど図書館は無料だからこそ当たり前に享受していた。このご時世におめでたい脳みそだ。近所の図書館とかルールが堅苦しすぎたり言いたいことがないわけではないけど、ひとまず感謝だなあ。


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"Ignorance is not a crime, BUT.."

 

本を読んだら賢くなるのか。他人の気持ちが分かるようになるのか。想像力がつくのか。知らないよ、そんなこと。だけど、図書館には本がある。本には文字がある。十分です。

 

余談:

今日は図書館&映画の前にペディキュアを塗り直して洗濯機を二度も回して作りおきもした。好きなごはん屋さんにも行った。そこで仲良しの会社の先輩に偶然(でもないけど、みんなの行きつけだから)会った。良い日でした。これは自慢です。ヨガはサボりました。

存在

 

わたしが急に消え去ったとして、気がつく人はどれくらい居るのだろう。

 

まず、会社の人たちはわたしが出勤してこないことに気づかないはずはない。その日と代わりが見つかるまでの数週間くらいは大変かもしれない。

友人はどうだろう。母とは連絡を取っていないから短くても半年は気づかない。父は生存確認のためにフェイスブックをたまには開くようにお願いしてきたくらい(ログイン履歴のようなものを確認している様子)だから数ヶ月もあれば気づくだろうか。

 

もし誰にも気づかれないとして(仕事をしてなければ有り得ない話ではなさそう)わたしは果たして確かに「存在した」と言えるのだろうか。わたしが存在することをわたしは知っているけどそのわたしごと消えてしまうとき誰にも存在したと認識されないわたしはもう存在したことにすらならないのではないだろうか。

 

【存在】

一、現実にそこにある(と感じられる)こと

二、ある働きを持つ(評価を伴う)人間

新明解国語辞典より)

 

そう、これ、一の()内の話がしたかった。自分がそこにあると誰にも感じられてないとき、自分は存在しているのか。

二はもっとこわい。人間の前に条件がついているなんて。存在として認められない人間がいるということか。ある働きとは。こわすぎるのでこっちについては考えないことにしておく。明日も仕事なので。

 

この一の定義の()内の主語は一体誰なのだろう。誰でもよいのだろうか。誰かが「存在した」というのが誰かによって認知されているということなのであれば「忘れないこと」はやさしさなのかもしれない。

 

でも、忘れないって、何を?

 

例えばそれが誰かの言葉であるとき「存在した」と認定されるのは発した人ではなくその言葉ではないのか。見た目や声や着ていた服や読んでいた本を覚えていてもそれはその人の全てではないのだからその人が存在したことを根本から証明するわけではないのではないか。何処かしらに名前が残っていたとしてもそれが効果を発揮するのは名前だけでなく他の何かをしっかり認識および記憶していてその表層化として名前が使われているからであってただ名前が記録されているだけではただの文字列だ。その人そのもの、なんてほんとうはどこにも残りようがないのかもしれない。

 

うん、やっぱり自分の存在を決定づけるのは自分だ。

 

いつ、どこに居ても、わたしはわたしが今ここに居ることを知っている。それを否定することは誰にもできない。誰にどう言われたって自分にとっては絶対真実。そういうものってそんなに多くない。

 


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二について考えてみたら(考えるんかい)自分が誰かの何かに影響を及ぼしたとしたらその影響こそが存在の証明になるようにも思える。でもそんなこと早々ない。あるって信じたいけどおそらくわたしによってもたらされるような変化(あるいは不変)なんて遅かれ早かれ、それに影響を受けたものが消えてしまったらそのときは共に、でもそれがまた別のものに影響を、ああもうこの話やめよう。

 

デカルト、読んでみようかな。